沿革

コマツユニオンのこれまでの歩みです。

私たちコマツユニオンは1946年に誕生して半世紀、数多くの試練や困難を経ながら、機械金属業界の労組を代表する大きな組織に発展してきました。これは、諸先輩方の言い尽くせないような努力のおかげであり、この貴重な歴史と伝統を私たちは守っていかなければなりません。

結成から組織の確立(1946年~1951年)

終戦間もない1946年1月、当時の本社であった粟津工場に労働組合が結成されたのを皮切りに、各事務所で次々に労働組合が誕生しました。 そして統一的な運動を進めるために、同じ年の5月、待望の「小松製作所従業員組合」本部結成大会が開かれ、同時に、組合規約および綱領も制定されました。 また、8月には会社と労働協約を締結しました。

会社は農耕用トラクターの生産で企業再興へ歩み出しましたが、敗戦による社会・経済の不安定状態は翌年も続き、極度のインフレ で組合員の生活は非常に困窮しました。賃上げ要求を契機に、労働運動史に残るような「百日闘争」に突入し、長期の労働争議による多大な犠牲を払いました。また、700名の人員 整理や粟津工場心臓部の焼失など、結成からの5年間は混乱と激動の中にありました。

コマツユニオン結成大会

企業の発展と組織の拡大(1952年~1964年)

1947年にブルドーザの生産を再開して、建機メーカーとしての地位を確立するにつれて、経営も安定し、生産拠点を氷見・大阪・川崎・小山へと拡大していきました。これによって、 組合も新しい支部の結成など、組織の飛躍的な発展をみました。また、労働条件の整備や改善が着実に進んでいきました。

組合活動の多様化と労働戦線の統一(1965年~1975年)

1955年代後半から日本経済は高度成長期に入り、会社は輸出高の増加に伴って、国際企業としての体制を整えていきました。組合は、賃上げを最重要課題として取り組みつつ、 労働時間短縮、休日増加、福利厚生など、活動の範囲を広げていきました。また、1965年代には、労働戦線の統一に向けて主導的な活動を展開しました。しかし、 1972年にはドル・ショックによる長期の一時休業など、厳しい対応を迫られたこともありました。

コマツユニオン労働会館

心の豊かさを求めて(1975年~1985年)

2度にわたるオイル・ショックで経済は低成長型へと転換し、経済的な豊かさを背景とした組合員の意識やニーズの多様化が進みました。組合活動は経済的な要求から、 心の豊かさや人生設計などの質的な充実と、総合的な労働条件の向上が求められるようになりました。

ゆとりづくりと生活の質的向上(1985年~1995年)

1985年からの大幅な円高の進展を克服し、日本経済は記録的な経済成長を達成するものの1991年にバブルが崩壊、以後、金融を中心に抜本的な構造改革を迫られます。 このような状況下、会社は海外生産へのシフトなど企業体質の強化を進め、よりグローバルな視点でグループの成長を図る施策を進めました。コマツユニオンは、情勢が目まぐるしく変化する中でも、労働条件の改善に努め、時短や福利厚生の充実など、ゆとりの創出と生活の質的向上を目指した諸施策の実現に取り組みました。

経営構造改革の断行と業績の回復(1996年~)

1996年以降も日本経済は回復せず、厳しい構造不況にさらされます。その中で会社は生産・開発体制の再編など、生き残りをかけた施策を次々と打ち出し、 ユニオンも、中期方針を取りまとめるなど、激変する環境に対応した取り組みを進めてきました。しかし2001年には経営が未曾有の危機的状況に陥り、収益基盤の 抜本的な強化を目的とした経営構造改革を断行し、労使をあげて会社再生に向けた改革に取り組みました。

その後、経営構造改革の成果と海外市場の需要増大が相まって 業績は回復し、現在に至ります。コマツユニオンは、2006年に結成60周年を迎え、「安心・安全な環境づくり」(Total Safety)、「やりがい・働きがいの向上」(Motivation Up)、 「連携・連帯の強化」(Group Wide)をキーワードに、「組合員の真のゆとり・豊かさの実現」を目指した様々な活動を展開しています。

コマツユニオン50周年